エンガチョ
この記事の題名は、「縁を切る」の意味。
このことについて書くなんてすごく重苦しくて、今も胸から両肩にかけてすごく嫌な感じがしているけど、切るべき縁もあるんじゃないかということを書こうと思う。
頭の中を整理して軽くなりたい。
「この誘いを断る=縁を切るということになる」とていう局面には、多くの人がぶち当たるのではないかと思う。私も今までの人生で何回かは直面したことがある。最近もこんな類のことが何種類か立て続けに起こった。疲れた。
1つはきれいにお互いに罪悪感なく自分から。もう1つは切られそうになった縁を自分からさらりとつなぎとめた(と思っている)(別にダメならダメでもいい)。最後の1つは、自分から、きれいに手順を踏んで正当な手段をもって切った縁。
実際にこれらの縁が切れたかどうかは、あと何年かしないとわからないのだけど。
すっきりした。すっきりするべきなのだ。私は何も悪くない。この罪悪感はどこからくるのかと言えば、
・ご縁を大切にするべき
・どんな人とでも1度つながりを持った以上、上手く関係を築いて離すべきでない
・関係が多い、携帯のアドレス帳により多くの連絡先がおさめられていればいるほど、その人は善人であり優れている
という世の中の風潮によるものかと思う。
しかし今回気づいたことは、パッと見友達が多くて、いつでも連絡できる友達が何人もいる、いわゆる優れた人間でも、案外これまで切り捨ててきた縁もあるのではないかということ。
日々忙しく、自分が生きるためだけで精一杯なのに、あっちのことから向こう側のことまで毎日考えていられない。自分の人生なのに、空いた時間を自分のために使って何が悪いのか!!悪い訳がない。自分が生きやすい人間関係を構築するのの何が悪いのか!!悪くない。断じて悪くないはずだ!
まだ自分がどんな人間か知る以前の親の影響って、逃れようがないというか。今の自分では絶対選ばないような道でも、連れて行かれるがままに進んでしまうっていうところがあると思う。私もその1人。そのころの経験をすべて否定するのはあまりにも残酷で、私にはなかなかできるものではないけれど、何か役に立っているかと聞かれればなかなか。役に立っている部分もいくつかあるけど、足枷になっている部分もある。
大人になって、自分がどんな属性の人間であるかわかり始めた今。自分から昔の環境に足を踏み入れる必要性はどこにあるのか。踏み入れなければいけない義務は私にあるのか。普通に考えてない。あってたまるか。丁寧にお断りして、さようならする。相手にとっても自分にとってもこれが1番良い。私はもう子どもではない。自分の人生は自分で決められる能力がある。
さようなら。その節はお世話になりました。
これからもお互い、別々の道でがんばりましょう。